なぜ「悪魔の靴」は人々の心を掴んだのか?【エアジョーダン秘史(23)=最終回】
1985年の1stモデルから今なお続くレジェンドバッシュのヒストリー。
こうしてマイケル・ジョーダンと破格な条件でなんとか独占契約にこぎつけたナイキは、彼のために「エアジョーダン」の1stモデルを紹介する。当時ナイキが推進していたユニフォームカラーとコーディネイトした赤と黒のコンビカラーのバッシュは、初めてそれを目にしたジョーダンに「悪魔のシューズみたいだね」と言わしめた。そのデザインインパクトは当時としては相当なもので、NBAの公式戦で彼がエアジョーダンを履いてコートに出ると、そのシューズのハデさはたちまち話題となった。当時バッシュといえば「白」が標準だったので、エアジョーダンはNBA規定の「ユニフォームの統一性に関する規約」に違反するという議論まで引き起こした。NBAはジョーダンおよびナイキに対し、「次の試合に違反したシューズを履いたら1000ドルの罰金。その次の試合も履き続けたら5000ドル、それでもやめなければブルズをノーゲームにする」と警告。ナイキとジョーダンは、その警告の次の試合こそエアシップを履いてしのいだものの、その次の試合では罰金を肩代わりし、すぐにその「投資」をプロモーションに結びつけたのだ。エアジョーダン1CMの有名なキャッチコピー、「9月15日、ナイキは革命的なバスケットシューズを開発した。10月18日、NBAはこのシューズをゲームから追放した。だが幸運にもNBAはあなたにこのシューズを履くなとは言えない。ナイキから。エアジョーダン」はこんな背景から生まれたのである。
エアジョーダン1のデザインにはナイキ・デザイン陣のピーター・ムーアとブルース・キルゴアのふたりが関わったと言われている。主にムーアがロゴデザイン、キルゴアがシューズ全般のコンセプトを担当していたようだ。ムーアが考案した通称「ウイングマーク」は、ナイキがジョーダンと契約交渉を始めた初期の時点から首脳陣のミーティングで発想されたアイデアのようで、そう考えるとレア種として存在する「NIKE AIR」バージョンのウイングマークも、ジョーダンとの契約決裂を視野に入れたモデルとも勘ぐれる。キルゴアも、突貫作業のようなジョーダン・シグネチャーの制作に、きわめて軽くシンプルにする他、奇抜なアイデアを入れることができなかっただろう。だがそのスタンダードさが、逆に今でもフリークたちに「一番好きなエアジョーダン」と評される要因にもなったのだ。
シカゴを中心に、ジョーダンがサクセスストーリーを歩み始めた頃、前述のとおり日本では雑誌『POPEYE』を通じて、西海岸カルチャーと一緒にエアジョーダンが上陸した。それを目にした誰もが、そのデザインインパクトに驚嘆し欲しがったが、さすがに当時日本価格1万6800円というプライスは、それまでスニーカー=2980円が常識だった日本の若者には手が出せなかった。だがそのマーケットの未成熟さが、結果AJ1をワゴンセールに引っ張り出し、スケーターたちが目をつけたことから、日本におけるファッションスニーカーとしての道を築き始めることになったのだ。
その後のAJシリーズの成功は、世界中の誰もが知ることになるところだ。だがその最初の一歩は、奇妙な偶然が思いがけず幸運な方向に積み重なったに過ぎなかった。それこそ「奇跡」としか言いようがなかっただろう。
連載『エアジョーダン秘史』は今回で最終回です。
ご愛読ありがとうございました。
*参考文献『スニーカーJack Premium「まるごと1冊エアジョーダン23周年』(小社刊)
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